先日、ソクーロフ監督の〈ファウスト〉を観たとき、若返った者ゆえの懊悩と煩悶を描いたということで〈コッポラの胡蝶の夢〉を思い出しました。
以下は、2008年に〈コッポラの胡蝶の夢〉が公開されたとき、記念刊行されたムック『フランシス・F・コッポラ ~Francis Ford Coppola & His World
』に書いた文章です。残念ながら、版元のエスクァイア・ジャパンが休刊して、いまは読めなくなっているので、ここに転載します。
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起動装置となる鏡が導く自らの人生への旅
フランシス・フォード・コッポラが妙ちきりんな新作を撮ったという噂は、以前から聞いていた。なんでも、〈ジョニーは戦場へ行った〉と〈アルジャーノンに花束を〉を合わせたような設定で、主人公が時空を自在に超越していく話なのだとか。荒唐無稽なスペクタクルのたぐいを予想したものだが、実際に観たところ、きわめて地味で内向的な、古めかしいとさえ評すべき小品だったのでいささか驚いた。
もっとも、深い内省を静かに描き出す傾向はコッポラの作品の大半に見られるものだから、その点はなんら意外でもない。初期の作品にはおおむねその味わいがあるし、一見それとはまったく対極に位置するかのような〈ゴッドファーザー〉や〈地獄の黙示録〉でも、物語の中心にあるのは、どちらも孤高の巨人の虚無と、それにどうにか近づこう、理解しようと実りなき苦闘を重ねる若者の絶望であり、〈ゴッドファーザー〉シリーズに至っては、PARTⅡ、PARTⅢと進むにつれ、主人公の孤独感はいや増すばかりである。だから、あれだけの大作にもかかわらず、印象に残るのは対話や群衆よりも、引き気味のカメラでうつむき加減の主人公ひとりだけを長々ととらえたシーンが多い。そう言えばコッポラ本人にしても、見かけこそ堂々たる風格を備えた巨漢だが、口を開けばどちらかと言うと小声で淡々と語り、自信なげな印象すら周囲に与えるというのは、一脈通じるものがある気がする。
いつごろのなんのインタビューだったかは忘れたが、コッポラがこれまでの諸作を振り返って、〈レインメーカー〉の現場がいちばん楽しかった、作家の書いたことをそのまま忠実に映画化するだけでいいんだから、まったくストレスがたまらないし消耗も少ない、という旨の発言をしたことがある。主人公におのれの願望や鬱屈を投影させて身も心も削っていく作業とは無縁ということだろう。それはそれでかまわないが(そして、もちろんワインビジネスはこの上なく楽しいのだろうが)、魂の原点へ回帰する機会は当然狙いつづけていたはずであり、その意味で今回の〈胡蝶の夢〉を作れたことでさぞ溜飲がさがったにちがいない。そして実際、映画人生の集大成と呼ぶにふさわしい映画として仕上がっていると思う。
〈胡蝶の夢〉では、自省の最たる象徴とも呼ぶべき小道具――鏡――が、さまざまな寓意を秘めたものとして、繰り返し効果的に用いられている。
最初は主人公である言語学者ドミニク(ティム・ロス)の回想シーンの冒頭付近で、若きドミニクが恋人ラウラ(アレクサンドラ・マリア・ララ)に室内で打ち明け話をする個所。ここでは二十代のドミニクの顔をカメラが直接とらえることはなく、画面の左隅に配された小さな鏡に映った顔だけが明らかになる。若さが本来二度と還らないものであることを暗示するかのような、奇妙な画面作りである。
つぎは、落雷で全身に火傷を負って包帯だらけになったドミニクが、なぜか異常なまでの回復力を示して四十歳前後にまで若返り、はじめて自分の顔を鏡で確認するシーン。ここではドミニクの動きと鏡像のそれとが微妙にずれ、主人公に示唆を与える分身がこの世に存在することがほのめかされるのだが、一瞬の出来事にすぎないため、観客もドミニク本人もまだそれがどういう性質のものであるかを感知できず、得体の知れない不安が掻き立てられる。
三番目は、転院後、すでに自分が肉体の若さばかりか驚異的な記憶力をも身につけたことを知るドミニクが、すっかり我が物顔で「参謀」として自己主張するようになったおのれの分身としばし対話するシーン。ドミニクは全裸でベッドに横たわり、かたわらに置かれた長い鏡に分身の姿が映し出されるが、本人と分身の動きはわずかに異なり、やがて議論に疲れた本人だけが立ちあがる。交わされる会話は分身の存在理由についてのものであり、天使と堕天使、光と闇、存在と物質といった二項対立の一種であると結論づけられる。ここでの鏡は、会話内容の図式性を鮮やかに際立たせる装置として機能していると言えるだろう。
その後、分身はなんのはばかりもなく自在に顔を出すようになり、起動装置としての鏡はしばらく影をひそめるが、終盤近くにまったく別の役割を帯びて、最も印象的な形で再登場する。後半のヒロインである、ラウラの生き写しの女性ヴェロニカ(アレクサンドラ・マリア・ララの一人二役)が、歴史をさかのぼる霊媒まがいの体験をドミニクの研究のために夜ごと強いられたすえ、衰弱のあまり、二十代半ばであるにもかかわらず四十代後半の風貌に変わり果ててしまったことを悟る場面だ。ヴェロニカは部屋に鏡がないことに気づき、見せてくれとドミニクに要求する。ドミニクは躊躇するが、棚の上にぼやけた円光が見えたせいでヴェロニカに手鏡のありかを感づかれ、しぶしぶそれを持ってきて差し出す。おそるおそる手鏡をのぞきこむヴェロニカ。ゆっくりと、それでいて厳然と本人に事実を知らせる鏡の動きは、若松孝二監督の〈実録連合赤軍・あさま山荘への道程〉で坂井真紀演ずる遠山美枝子が自分の顔の惨状を知る瞬間ほどの衝撃はないとはいえ、やはり冷酷きわまりない。これは原始言語の研究のため、最愛のヴェロニカを結局のところ実験台として利用してきたドミニクのまさに自業自得であり、分身との狡猾な交流手段であった鏡が悲劇をもたらすきっかけとなってしまったのがいかにも皮肉である。
そして、病から救い出すべくヴェロニカとやむなく別れ、放浪のすえに故郷ピアトラネアムツに帰り着いたドミニクは、ホテルの一室で分身と口論をはじめ、激昂のあまり鏡を叩き割ってしまう。鏡は分身の住みかであり、割られた分身は行きどころを失って滅びていく。ドミニクにとって鏡との決別は分身との決別であり、それは「若さなき若さ」と付き合いつつ漂泊してきた人生(実年齢ではこの時点で百歳を超えている)の終焉をも意味している。
〈カンバセーション……盗聴……〉には、盗聴器の見本市でジーン・ハックマンが招かれざる客のハリソン・フォードと巨大な鏡の前で出くわす場面があり、主人公の不安と驚愕がみごとに増幅されていたものだが、〈胡蝶の夢〉のコッポラは、考えうるかぎりのあの手この手を使って鏡という装置の魅力を存分に引き出している。また、鏡ばかりでなく、回想シーンでは上下逆さの画像や光の斑が多用されているが、これらはいずれも、おそらく技術的にはさほどむずかしいことではないと思われ、デジタル全盛のこのご時世にアナログにこだわった造りで勝負しているのが興味深い(少々粗っぽいと感じた個所もあるにはあるが)。
作劇そのものへ目を移すと、プロットは原作であるエリアーデの中編の流れをほぼ忠実に受け継いでいるものの、一文のなかでさえ頻繁に時空がねじれる原作の暴れっぷりをむしろ抑制し、たとえばラウラとヴェロニカを瓜ふたつの美女として造形したり、ナチへの批判色を強めるエピソードを差しはさんだりして、映画的な厚みを加えている。これはエンタテインメントとしての戦略というより、テーマを純粋かつ明確に打ち出すための判断だろう。
ところで、この作品、寓話っぽい構造が何かに似ている気がしてならず、あれこれ記憶をたどってみたところ、これはディケンズの『クリスマス・キャロル』の変奏曲ではないかと思いついた。ストーリーラインはかならずしも酷似しているとは言えないが、狷介な老人が人生の終局を迎える直前に超自然的ないきさつで時空を超えた旅に出かけ、先々で出会う人間や出来事に触発されて、生きることの意味を再発見するという全体の流れは〈胡蝶の夢〉にも通底するのではないだろうか。ライフワークである言語研究と愛する女性への献身とのあいだの痛切な葛藤を乗り越えて、本来の人生に従容として立ち帰るドミニクの姿は、強欲を捨て去ったスクルージのいわば進化形である。だとしたら、ハッピーエンドかどうかは本質的な問題ではない。タイトルにもあるとおり、人生が見果てぬ夢であることを悟得したわけだから、手に三本目の薔薇を握った最後の姿はすがすがしくさえ感じられた。
本国では観念的で難解と評されることが多かったようだが、〈胡蝶の夢〉は彩り豊かな寓意に満ちたファンタジーである。ルーマニアの若手ミハイ・マライメアJrのカメラワークは、ときにあのゴードン・ウィリスを髣髴させるほど巧みに色濃く陰影を描き出し、落ち着きと清新さの双方をこの作品に与えている。

