プロフィール

  • 越前敏弥
    文芸翻訳者。 ご感想・お問い合わせなどは office.hyakkei@gmail.com へお願いします。
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本・映画

2020年1月27日 (月)

〈9人の翻訳家〉の結末について

 映画〈9人の翻訳家 囚われたベストセラー〉が公開されました。
 この映画が作られた背景については、前回のこの記事を参考にしてください。
 ここまでのところ、観た人の評判は非常によく、二転三転する仕掛けにみごとにだまされる極上のミステリーという評価が大半であるようです。
 大仕掛けだけでなく、細かい部分についてもさまざまな伏線や含意が組みこまれていて、おそらく一度観ただけではすべてを見抜くことはできない作品なので、ぜひ二度、三度と観ていただきたいです。
 ところで、この映画の終盤に、謎解きの一環としてアガサ・クリスティの某有名作品の内容が関係してくる個所があります。その個所がどういうことなのか、わたしは数回観ても確信が持てず、試写を観たある書評家のかたと話したところ、そのかたも2回観たうえでご自身の解釈を教えてくださったのですが、それはわたしの解釈とまったく異なるものでした。
 気になったので、配給会社を通じて、その点についてこの作品のレジス・ロワンサル監督に質問したところ、なんと、その回答はわたしの解釈とも書評家のかたの解釈ともちがっていました。ただし、監督によると、これにはいろいろな解釈が成り立つので、われわれのどちらもまちがいというわけではないとのことでした。ひょっとしたら、この3つ以外の解釈もありうるのかもしれません。
 そのことについて書くにあたっては、この映画の結末、そしてそのクリスティ作品の結末を両方明かさざるをえないので、下にリンクを張って、そこにファイルを入れます。映画〈9人の翻訳家〉を観て、かつ、そのクリスティ作品の犯人を知っている人だけ、ご覧ください。【ネタバレ注意】 

ダウンロード - 920translators.pdf

 この個所だけでなく、映画〈9人の翻訳家〉は、ミステリー好きの人、海外文学好きの人、そして翻訳という仕事に興味がある人、いずれもが楽しめるディテールが満載の作品です。また、そのクリスティ作品やダン・ブラウン作品を読んでいなくても、まったく問題ありません。ぜひご覧になって、見終わった人と感想を語り合ってください。

2016年6月27日 (月)

映画「天使と悪魔」の紹介文&「インフェルノ」最新版トレイラー

 秋に映画〈インフェルノ〉が公開されることもあり、先日、映画〈ダ・ヴィンチ・コード〉と〈天使と悪魔〉のブルーレイを久しぶりに観ました。公開時にはそれぞれ翻訳の手伝いをしたこともあり、単純に楽しむことはなかなかむずかしかったのですが、ずいぶん経ったいま、特に〈天使と悪魔〉のほうは、あらためてよくできていると感じました。 

 公開当時(2009年)にパンフレットに書いた文章が残っていたので、この機会に紹介します(一部省略あり)。いま観ての感想もこれとだいたい同じです。 

―――――――――― 

 ロン・ハワード監督による「天使と悪魔」の前作「フロストVSニクソン」は、実に巧みに緩急のつけられた佳作だった。ロン・ハワードの場合、代表作とされるのは今年のアカデミー賞候補になったこの「フロストVSニクソン」のほか、「アポロ13」や「ビューティフル・マインド」や「シンデレラマン」など、実話をベースとした作品が多い。その手の作品が成功するか否かは、実在人物の造形において、いかに「ふくらます」かにかかっていると言ってよいだろうが、前掲の作品はみな、それぞれの実像を浮かびあがらせるような架空のエピソードや台詞を効果的に挿入することによって、人物に深みを与えている。「フロストVSニクソン」では、インタビュー開始の数秒前にニクソンの漏らすひとことが実に人間くさく楽しかったものだ。
 原作や原案のある映画においては、「ふくらます」と「刈りこむ」の匙加減が重要になってくる。長編小説が原作である場合、刈りこみが必要な場面が当然ながら多いのだが、それがベストセラーであればあるほど、刈りこむのはむずかしい。原作の読者は作品の隅々にまで自分なりの愛着を強く持っているものなので、いかに巧みにまとめたとしてもなかなか納得しないからだ。長編のベストセラーで、原作と映画の双方がきわめて高い評価を得た例としては「ゴッドファーザー」と「フォレスト・ガンプ」と「羊たちの沈黙」くらいしか思いつかない。
「ダ・ヴィンチ・コード」や「天使と悪魔」など、ダン・ブラウンの小説は、短い章立てと目まぐるしいほどの場面転換を特徴としており、それ自体が映画的と評されることがよくあるため、一見映画化はたやすそうに思えるかもしれないが、事はそう簡単ではないだろう。この二作は、どちらも文庫で1,000ページ近い大長編であるにもかかわらず、物語のなかでは、冒頭から結末まででわずか半日ほどしか経過しない。これは異様なほど描写が濃密だからだが、それぞれの章に読者がページを繰る手が止まらなくなるような仕掛けがいくつも盛りこまれているので、読んでいてまったく飽きることがない。また、特にこのラングドン・シリーズにおいては、随所で語られる膨大な量の蘊蓄が並はずれておもしろいのだが、それらがストーリーの必然からかけ離れることなく、みごとに一体化していて、中途半端に読み飛ばすことができない。すさまじい勢いでページを繰らせながらも、一字一句漏らさず楽しませるという、本来なら相反することを実現できたことこそが、大ベストセラーとなった最大の理由だと言えよう。だとしたら、映像化にあたって、その単なるダイジェスト版にしてしまってはその魅力が半減する。
 映画「ダ・ヴィンチ・コード」では、簡潔な描写の巧みさに舌を巻いた個所が多かったものの、中盤に解き明かされる謎が物語の最大の山場となる一本調子の構造をそのまま踏襲したせいもあって、結果としてはダイジェスト版に近いものになったため、スピード感あふれるスリラーとしてはロン・ハワードの他作品に遜色のない出来だったが、原作の読者にとってはいくぶん食い足りず、未読の観客にとっては逆に消化不良になりかねない側面があったかもしれない。
 では、映画「天使と悪魔」はどうか。結論から言うと、今回は「ダ・ヴィンチ・コード」のときとちがって、原作に対して必要以上の忠義立てをせず、かなり大胆に逸脱した構成を選んだのが功を奏し、既読・未読のどちらの観客も満足できる傑作になったと思う。原作では3分の1以上を占めるセルンのエピソードを極端に縮め、原作の主要登場人物の半分近くを切り捨てるという今回の選択は、ずいぶん度胸の要るものだったにちがいないが、そのおかげで後半のヴァチカンと4人の枢機卿の話をたっぷり描くことができ、原作の持つ映画的構成のよさが最大限に引き出されたと言えるだろう。
 かつて、量産時代の日本映画では、大長編の原作であっても70分程度の枠のなかにおさめなくてはならないことが多かったため、原作の登場人物2、3人をまとめてひとりの人物に凝縮させるという作劇手法がよくとられたと聞くが、「天使と悪魔」を観て、ふとその話を思い出した。原作で重要な役どころを占めるセルンのコーラー所長、ヴィットリアの父レオナルド、ロシェ衛兵隊副隊長などは、映画には登場しないが、これらの人物の性格やエピソードは巧みにほかの人物に移植されている。
 また、原作でラングドンに「神を信じるか」と尋ねたのはヴィットリアだったのが、映画ではカメルレンゴになっているとか、〝崇拝の歓呼〟について言及したのがBBCのレポーターだったのが、映画では枢機卿たちになっているとか、細かい改変はいくつも見つかるが、いまとなっては、むしろ最適の場所にぴたりとピースがあてはまったように感じられる。まさに練りに練ったシナリオの勝利である。
 欲を言えばもう少しお色気がほしかった気もしなくはないが、ロン・ハワードはクリント・イーストウッドなどと並んで、過剰になりそうなぎりぎりのところで描写を抑制するセンスに長けた映画作家であり(ふたりが組んだ「チェンジリング」もまさにそんな作品だった)、タイムリミット・サスペンスを堪能するにはこういう処理でよかったのだろう。
  むろん、映画を観終わったあとで原作を読みたくなるという点では、「ダ・ヴィンチ・コード」も「天使と悪魔」も変わるまい。映画を補完するもの、解説するものとして原作を手にとってもらうことも可能だが、まったく独立した、別個の作品としてもじゅうぶん楽しんでいただけると信じている。
 

―――――――――― 

 映画としてはラングドン・シリーズ第3弾にあたる〈インフェルノ〉は、今年の10月28日に日米同時公開されます。数日前に最新版のトレイラーが観られるようになりました。フルバージョンはこれです(字幕なし)。どうぞお楽しみに。

2013年11月21日 (木)

『神曲』入門書とダンヌンツィオ展

 翻訳ミステリー大賞シンジケートの連載「『インフェルノ』への道」は、すでに「その1」「その2」が掲載され、25日(月)の「その3」で完結します。また、KADOKAWAの『インフェルノ』公式サイトには、プロモーション動画やインタビュー映像がアップされています。

 28日(木)の『インフェルノ』刊行に向けて、関連書やダンテの入門書などがいくつか刊行されますが、きょうはそのうちの1冊を紹介します。今週末には書店に並ぶと思います。

 この『謎と暗号で読み解く ダンテ『神曲』 (角川oneテーマ21)』は、東京大学大学院総合文化研究科准教授の村松真理子さんによる『神曲』入門書です。著者はダンテも含めたイタリア文学の研究者で、ダンテの生い立ちや『神曲』の読みどころをとてもわかりやすくまとめてくれています。

『神曲』の入門書としては、阿刀田高さんの『やさしいダンテ<神曲> (角川文庫)』がすでにありますが、そちらが著書の解釈を交えつつ全体のあらすじを網羅していく構成であるのに対し、今回の村松さんの著書は、全体をざっと一覧しながらも、文学史・社会史のなかで重要ないくつかの部分に焦点を絞って論じているという印象を受けました。また、韻文としての『神曲』の魅力を、イタリア語を知らない一般読者にもわかりやすく紹介している個所がいくつもあり、理想的な入門書となっています。

『インフェルノ』の前後、どちらに読んでも、きっと多くを学べ、楽しめると思います。そして、これを機に14世紀の名作そのものをぜひ手にとってください。

 この村松真理子さん、実は大学時代の同級生です。角川書店からこの本が出ることを知らされたときは、あまりの偶然に驚いたものです。先日、東大の駒場キャンパスへ行って、久しぶりにご本人に会ってきました。そのとき、ダンテや神曲にまつわる話もいろいろ聞いたのですが、特におもしろかったのは、ダン・ブラウンは『ダ・ヴィンチ・コード』のときにすでに『神曲』の影響を受けていたにちがいないというものでした(『謎と暗号で読み解くダンテ『神曲』』のあとがきにも、そういう記述があります)。自分にとってそれは大きな驚きでしたが、説明を聞いてなるほどと納得しました。このことについては、来週「『インフェルノ』への道」の「その3」にくわしく書くつもりです。まずはこの入門書を読んでみてください。

 ところで、東大の駒場キャンパスへ出向いたのには、もうひとつ目的がありました。村松さんご自身が企画して立ちあげた、ダンヌンツィオ生誕150周年記念展覧会「ダンヌンツィオに夢中だった頃」が学内の博物館でおこなわれていたからです。

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 ダンヌンツィオについては、自分は名前を知っている程度でしたが、今回展覧会をじっくり見せてもらい、文学者として、政治家として、そして人間としてのあまりのスケールの大きさにびっくりしました。こんなに波瀾万丈な人生を送り、格調の高さと露悪趣味が混在する破天荒な作品群を残した人は、歴史上どこにもいないかもしれません。

 展覧会は、ダンヌンツィオの生涯を多くの資料で回顧しつつ、日本に与えた影響なども紹介しています(展覧会のタイトルは筒井康隆氏による三島由紀夫論『ダンヌンツィオに夢中 (中公文庫)』を下敷きにしたものです)。とりわけ、晩年のダンヌンツィオが過ごした邸宅の写真や動画のおもしろさは尋常ではありません。村松さんも、ひょっとしたらダンヌンツィオが残した最高傑作はこの家かもしれない、とおっしゃっていました。

 展覧会は12月1日まで。興味のあるかたはのぞいてみてください。ちょうど今週末の駒場祭がよい機会かもしれません。

 

2013年2月20日 (水)

『絵本翻訳教室へようこそ』

 今年は児童書の翻訳をいくつか手がけることになっているので、その参考にしようと思って、灰島かりさんの『絵本翻訳教室へようこそ』を読みました。

 これはカルチャーセンターでの授業を土台とした本で、1冊の絵本を数行ずつ読み進めながら、6人の生徒の訳文を叩き台として、絵本翻訳で注意すべき諸問題を、著者が生徒と読者に語りかける形でていねいに解説していきます。著者の絵本に対する愛情、翻訳に対する愛情が全編から伝わってきます。

 わたしの『日本人なら必ず悪訳する英文』の後半も、これと似た構成をとっていますが、このような形にすると、ともすれば、翻訳論に関してあれも書きたい、これも書きたいとなって、収拾がつかなくなってしまします。しかしこの本では、絵本翻訳にほんとうな必要な心構えや周辺知識がほどよく紹介されていて、読者が効率よく学ぶことができます。

 また、こういう訳し方もある、ああいう訳し方もある、といろいろな例をあげて、自由に翻訳することの楽しさを伝えながらも、原文の細部をていねいに読みこんでいない訳文ははっきりと否定する姿勢が貫かれていて、すがすがしく感じました。

 全体として強く感じたのは、子供向けと大人向けの本の翻訳技術のちがいよりも、根底ではほとんど変わらないということでした。もちろん、オノマトペ(擬声語、擬態語)を使うべき頻度とか、段落やセンテンスの切り方とか、個々の技術では異なる部分も少なくありませんが、それは対象読者が異なるから当然のことであり、翻訳という仕事に向かう基本姿勢や訓練の方向性はまったく同じだと思ったしだいです。

 その意味でも、これは児童書にあまり興味がない人にもお奨めできる本です。

2013年1月23日 (水)

『英和翻訳基本辞典』インデックス

 昨年末に、宮脇孝雄さんによる『英和翻訳基本辞典』の紹介記事を書きました(ここ)。その後も大変役立っていて、先日訳していたグレアム・グリーンの短篇でも、これを読んでいなければおそらく誤訳していたであろう個所にぶつかり、冷や汗をかきつつ大いに感謝したものです(恥ずかしいのでどの語かは書きませんが)。

 この前の記事にも書いたとおり、これは翻訳や語学にかかわる仕事をしている人にとっては、隅から隅まで熟読すべき本ですが、言うまでもなく、この上なく有用な辞書でもあります。さらに言うと、われわれ翻訳者がふだんから利用している「串刺し検索」ができるようにすれば、一段と使い勝手がよくなります。そこで、この辞書の串刺し検索ができるように、Jamming 用のインデックスを作成し、このブログをご覧のかたがダウンロードできる形にしました。すでに版元の研究社と著者の宮脇孝雄さんのご承諾を得ています。

   「EJBTD_jamming.txt」をダウンロード

 Jamming をご利用のかたは、ユーザー辞書としてこれを使うことができます。ユーザー辞書の利用法については、Jammingユーザーズガイドの「ユーザー辞書の使い方」をご覧ください。

 また、Logophile をご利用のかたは、これを Logophile 形式に変換すれば、やはりユーザー辞書として使えます。わたし自身が Logophile を使っていないのでくわしいことは知らないのですが、以下の方法によって数分で作業を終えた人が何人もいるので、変換のしかたがわからない人は試してみてください。

―――――

1 適当な場所に「英和翻訳基本辞典」フォルダを作る
2 そのなかに「DATA」フォルダを作る
3 このDATAフォルダのなかに本文のデータをコピーする(ここまではJammingでユーザー辞書を作るときと同じ)
4 LogophileDicManagerを起動し、「ツール」から「別形式の辞書をインポート」に進む
5 インポート元のファイル形式は「Jamming形式」、データの場所はいま作ったDATAフォルダ、インポート先のファイル形式は「Logophileテキスト形式」、名称は「英和翻訳基本辞典」、保存先は適当に指定して、実行する
6 Logophileを起動する

―――――

 串刺し検索を使っていないかたは、下のファイルをダウンロードすれば、通常のテキストファイルの形でファイル内の検索をすることができます。 

   「EJBTD_index.txt」をダウンロード

 【1月25日追記】

 PDICをお使いのかたのためのファイルを追加公開します。PDIC形式(dicファイル)とPDIC1行テキスト形式があります。

「EJBTD_index_PDIC.dic」をダウンロード

「EJBTD_index_PDIC1L.txt」をダウンロード

 DDWinへの変換方法についてはこちら(白石朗さんのツイート)をご覧ください。

【2月1日追記】

 Logophile で熟語の検索がしづらい場合の解決法が高橋聡さんのブログ(ここに載りました。

 ファイルの作成作業は熊谷淳子さんにお願いし、Logophile への変換方法は青木創さんから教わりました。この場を借りてお礼を言わせてください。わたし自身はこういったことにはあまり強くなく、技術的な質問にはお答えしかねますので、どうかご了承ください。

【1月25日追記】

 ファイルをうまく読みとれなかったかたは、文字コードのちがいが原因かもしれません。ファイルの保存の際、または保存後に、文字コード(またはエンコード)を「UTF-8」から「シフトJIS」(または「ANSI」)に変えるとうまくいく可能性があります。高橋聡さんのブログ記事(ここ)も参考になります。

 ファイルのダウンロードにあたっては、特にご連絡をいただく必要はありません。どなたでもご自由にお使いください。ただ、言うまでもありませんが、このファイルだけをお持ちになっていても、利用価値はゼロも同然です。具体例をあげての詳細な解説があってはじめて意味があるものなので、『英和翻訳基本辞典』をご購入のうえ、末永くご活用くださるようお願いします

 これが翻訳関係者や学習者のみなさんの調べ物の環境を向上させる一助となれば幸いです。

2012年12月25日 (火)

『英和翻訳基本辞典』について

 宮脇孝雄さんの『英和翻訳基本辞典』(研究社)が先日発売されました。これは翻訳者・学習者はもちろん、多少とも語学や海外文化に興味がある人にはぜひ読んでもらいたい本です。

 宮脇さんが《週刊ST》に約20年にわたって連載なさったコラムは、これまで、『翻訳家の書斎―「想像力」が働く仕事場』、『翻訳の基本―原文どおりに日本語に』、『続・翻訳の基本』の3冊に分けて出版されてきました。今回の『英和翻訳基本辞典』は、それらに収録されなかったものに新たな記事を加え、見出しをアルファベット順にして再構成したものです。500ページ近くあり、前の3冊をすべて合わせたぐらいの情報がぎっしり詰まっています。

 最初の『翻訳家の書斎』が出たころ、わたしはまだ新人で、そこに載っていた調べ物のコツや単語・熟語に関する背景知識などを大いに参考させてもらいました。残りの2冊が出たときも、誤訳や悪訳をできるかぎり減らすための強力な武器として、みずから何度も読み返すとともに、同業者や生徒たちにもずっと推薦しつづけてきました。

 今回出た『英和翻訳基本辞典』は、いちおう辞書の体裁にはなっていますが、これは隅から隅まで繰り返し熟読すべき本です。たとえば、academic という見出し語の下には「すぐ思いつく訳語」として、「アカデミックな、学術的な」とあり、その下に「もしかしたら……」として「空理空論」という訳語が紹介され、そのあと、この語に関する説明や具体的な誤訳例が並んでいるという具合。ほかの見出し語では、「辞書にある訳語」の下に「豆知識」があったり、「誤った訳」の下に「正しくは……」があったり、微妙に構成がちがう場合もありますが、いずれにせよ、英文を正しく読んでいくための情報が満載で、どの項目も読み飛ばせません。それでいて、もともとがよい息抜きになるようなコラムだったこともあり、読みつづけても疲れないくふうがされています。ごくふつうに読み物としても楽しめます。

Photo

 翻訳者が仕事の質を高めていくためにも、語学学習者が正確な知識を身につけていくためにも、必携の1冊です。わたしもこれから繰り返し読みこんでいくつもりですが、すでに何十もの項目で冷や汗を流しました。残念ながら『翻訳家の書斎』はいまは入手がむずかしいのですが、『翻訳の基本』、『続・翻訳の基本』も合わせて、じっくりお読みになることをお薦めします。

2012年7月13日 (金)

胡蝶の夢

 先日、ソクーロフ監督の〈ファウスト〉を観たとき、若返った者ゆえの懊悩と煩悶を描いたということで〈コッポラの胡蝶の夢〉を思い出しました。

 以下は、2008年に〈コッポラの胡蝶の夢〉が公開されたとき、記念刊行されたムック『フランシス・F・コッポラ ~Francis Ford Coppola & His World 』に書いた文章です。残念ながら、版元のエスクァイア・ジャパンが休刊して、いまは読めなくなっているので、ここに転載します。

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起動装置となる鏡が導く自らの人生への旅

 フランシス・フォード・コッポラが妙ちきりんな新作を撮ったという噂は、以前から聞いていた。なんでも、〈ジョニーは戦場へ行った〉と〈アルジャーノンに花束を〉を合わせたような設定で、主人公が時空を自在に超越していく話なのだとか。荒唐無稽なスペクタクルのたぐいを予想したものだが、実際に観たところ、きわめて地味で内向的な、古めかしいとさえ評すべき小品だったのでいささか驚いた。

 もっとも、深い内省を静かに描き出す傾向はコッポラの作品の大半に見られるものだから、その点はなんら意外でもない。初期の作品にはおおむねその味わいがあるし、一見それとはまったく対極に位置するかのような〈ゴッドファーザー〉や〈地獄の黙示録〉でも、物語の中心にあるのは、どちらも孤高の巨人の虚無と、それにどうにか近づこう、理解しようと実りなき苦闘を重ねる若者の絶望であり、〈ゴッドファーザー〉シリーズに至っては、PARTⅡ、PARTⅢと進むにつれ、主人公の孤独感はいや増すばかりである。だから、あれだけの大作にもかかわらず、印象に残るのは対話や群衆よりも、引き気味のカメラでうつむき加減の主人公ひとりだけを長々ととらえたシーンが多い。そう言えばコッポラ本人にしても、見かけこそ堂々たる風格を備えた巨漢だが、口を開けばどちらかと言うと小声で淡々と語り、自信なげな印象すら周囲に与えるというのは、一脈通じるものがある気がする。 

 いつごろのなんのインタビューだったかは忘れたが、コッポラがこれまでの諸作を振り返って、〈レインメーカー〉の現場がいちばん楽しかった、作家の書いたことをそのまま忠実に映画化するだけでいいんだから、まったくストレスがたまらないし消耗も少ない、という旨の発言をしたことがある。主人公におのれの願望や鬱屈を投影させて身も心も削っていく作業とは無縁ということだろう。それはそれでかまわないが(そして、もちろんワインビジネスはこの上なく楽しいのだろうが)、魂の原点へ回帰する機会は当然狙いつづけていたはずであり、その意味で今回の〈胡蝶の夢〉を作れたことでさぞ溜飲がさがったにちがいない。そして実際、映画人生の集大成と呼ぶにふさわしい映画として仕上がっていると思う。


〈胡蝶の夢〉では、自省の最たる象徴とも呼ぶべき小道具――鏡――が、さまざまな寓意を秘めたものとして、繰り返し効果的に用いられている。
 

 最初は主人公である言語学者ドミニク(ティム・ロス)の回想シーンの冒頭付近で、若きドミニクが恋人ラウラ(アレクサンドラ・マリア・ララ)に室内で打ち明け話をする個所。ここでは二十代のドミニクの顔をカメラが直接とらえることはなく、画面の左隅に配された小さな鏡に映った顔だけが明らかになる。若さが本来二度と還らないものであることを暗示するかのような、奇妙な画面作りである。 

 つぎは、落雷で全身に火傷を負って包帯だらけになったドミニクが、なぜか異常なまでの回復力を示して四十歳前後にまで若返り、はじめて自分の顔を鏡で確認するシーン。ここではドミニクの動きと鏡像のそれとが微妙にずれ、主人公に示唆を与える分身がこの世に存在することがほのめかされるのだが、一瞬の出来事にすぎないため、観客もドミニク本人もまだそれがどういう性質のものであるかを感知できず、得体の知れない不安が掻き立てられる。 

 三番目は、転院後、すでに自分が肉体の若さばかりか驚異的な記憶力をも身につけたことを知るドミニクが、すっかり我が物顔で「参謀」として自己主張するようになったおのれの分身としばし対話するシーン。ドミニクは全裸でベッドに横たわり、かたわらに置かれた長い鏡に分身の姿が映し出されるが、本人と分身の動きはわずかに異なり、やがて議論に疲れた本人だけが立ちあがる。交わされる会話は分身の存在理由についてのものであり、天使と堕天使、光と闇、存在と物質といった二項対立の一種であると結論づけられる。ここでの鏡は、会話内容の図式性を鮮やかに際立たせる装置として機能していると言えるだろう。 

 その後、分身はなんのはばかりもなく自在に顔を出すようになり、起動装置としての鏡はしばらく影をひそめるが、終盤近くにまったく別の役割を帯びて、最も印象的な形で再登場する。後半のヒロインである、ラウラの生き写しの女性ヴェロニカ(アレクサンドラ・マリア・ララの一人二役)が、歴史をさかのぼる霊媒まがいの体験をドミニクの研究のために夜ごと強いられたすえ、衰弱のあまり、二十代半ばであるにもかかわらず四十代後半の風貌に変わり果ててしまったことを悟る場面だ。ヴェロニカは部屋に鏡がないことに気づき、見せてくれとドミニクに要求する。ドミニクは躊躇するが、棚の上にぼやけた円光が見えたせいでヴェロニカに手鏡のありかを感づかれ、しぶしぶそれを持ってきて差し出す。おそるおそる手鏡をのぞきこむヴェロニカ。ゆっくりと、それでいて厳然と本人に事実を知らせる鏡の動きは、若松孝二監督の〈実録連合赤軍・あさま山荘への道程〉で坂井真紀演ずる遠山美枝子が自分の顔の惨状を知る瞬間ほどの衝撃はないとはいえ、やはり冷酷きわまりない。これは原始言語の研究のため、最愛のヴェロニカを結局のところ実験台として利用してきたドミニクのまさに自業自得であり、分身との狡猾な交流手段であった鏡が悲劇をもたらすきっかけとなってしまったのがいかにも皮肉である。 

 そして、病から救い出すべくヴェロニカとやむなく別れ、放浪のすえに故郷ピアトラネアムツに帰り着いたドミニクは、ホテルの一室で分身と口論をはじめ、激昂のあまり鏡を叩き割ってしまう。鏡は分身の住みかであり、割られた分身は行きどころを失って滅びていく。ドミニクにとって鏡との決別は分身との決別であり、それは「若さなき若さ」と付き合いつつ漂泊してきた人生(実年齢ではこの時点で百歳を超えている)の終焉をも意味している。 

〈カンバセーション……盗聴……〉には、盗聴器の見本市でジーン・ハックマンが招かれざる客のハリソン・フォードと巨大な鏡の前で出くわす場面があり、主人公の不安と驚愕がみごとに増幅されていたものだが、〈胡蝶の夢〉のコッポラは、考えうるかぎりのあの手この手を使って鏡という装置の魅力を存分に引き出している。また、鏡ばかりでなく、回想シーンでは上下逆さの画像や光の斑が多用されているが、これらはいずれも、おそらく技術的にはさほどむずかしいことではないと思われ、デジタル全盛のこのご時世にアナログにこだわった造りで勝負しているのが興味深い(少々粗っぽいと感じた個所もあるにはあるが)。 

 作劇そのものへ目を移すと、プロットは原作であるエリアーデの中編の流れをほぼ忠実に受け継いでいるものの、一文のなかでさえ頻繁に時空がねじれる原作の暴れっぷりをむしろ抑制し、たとえばラウラとヴェロニカを瓜ふたつの美女として造形したり、ナチへの批判色を強めるエピソードを差しはさんだりして、映画的な厚みを加えている。これはエンタテインメントとしての戦略というより、テーマを純粋かつ明確に打ち出すための判断だろう。 

 ところで、この作品、寓話っぽい構造が何かに似ている気がしてならず、あれこれ記憶をたどってみたところ、これはディケンズの『クリスマス・キャロル』の変奏曲ではないかと思いついた。ストーリーラインはかならずしも酷似しているとは言えないが、狷介な老人が人生の終局を迎える直前に超自然的ないきさつで時空を超えた旅に出かけ、先々で出会う人間や出来事に触発されて、生きることの意味を再発見するという全体の流れは〈胡蝶の夢〉にも通底するのではないだろうか。ライフワークである言語研究と愛する女性への献身とのあいだの痛切な葛藤を乗り越えて、本来の人生に従容として立ち帰るドミニクの姿は、強欲を捨て去ったスクルージのいわば進化形である。だとしたら、ハッピーエンドかどうかは本質的な問題ではない。タイトルにもあるとおり、人生が見果てぬ夢であることを悟得したわけだから、手に三本目の薔薇を握った最後の姿はすがすがしくさえ感じられた。 

 本国では観念的で難解と評されることが多かったようだが、〈胡蝶の夢〉は彩り豊かな寓意に満ちたファンタジーである。ルーマニアの若手ミハイ・マライメアJrのカメラワークは、ときにあのゴードン・ウィリスを髣髴させるほど巧みに色濃く陰影を描き出し、落ち着きと清新さの双方をこの作品に与えている
 

2012年5月18日 (金)

「生きつづけるロマンポルノ」(その2)

 東京・渋谷ユーロスペースの特集上映「生きつづけるロマンポルノ」はなかなか好調のスタートを切ったようです。ユーロスペースでの上映後は、順次全国で公開される予定です。(スケジュールはこちら)。

 これへの応援の意味をこめて、先週に引きつづき、今週もかつて日活ロマンポルノについて書いた文章を転載します。これは7年前、シナリオライターの桂千穂さんの伝記『多重映画脚本家 桂千穂』が刊行されたときに《映画芸術》誌に書いた書評です。いま読み返してみると、私的ロマンポルノ史であると同時にちょっとした文章論にもなっていると思うので、このタイミングで載せようと考えたしだいです。

 わたしはいまでも、桂さんのような台詞を書きたいと無意識に思いながら小説の翻訳をしています。

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日活ロマンポルノ史への秘めた視線

 拙訳書『ダ・ヴィンチ・コード』が去年世に出たとき、書評の多くが、煎じ詰めればほとんど同じことを言っていた。いわく、スピード感抜群でページを繰る手が止まらない、語られる蘊蓄はわかりやすく興味深い、だが、人物描写が薄っぺらで、作品としての深みがない、と。その手の書評を読むたび、そもそも「スピード感」と「深み」が両立することなどありえないではないか、と感じたものだ。そして、桂千穂さんだったらこれを聞いてどうおっしゃるだろうか、とも何度か思った。何しろ、数十年にわたって、極論すれば「人間なんか描かなくてよい」という主張をさまざまな場で繰り返し述べてきたシナリオライター/批評家なのだから。

 そんな折、『多重映画脚本家・桂千穂』(ワイズ出版)が刊行された。全編を通して、ふたりの編者が桂さんにインタビューする形式で、デビュー前の修業時代から現在まで原則として時代順に、全作品の解説や裏話がたっぷり語られる。桂さんも含めた三人の、映画への(とりわけロマンポルノへの)愛が強く伝わってくる力作だ。編者のひとりである北里宇一郎氏は、あとがきで、若き日に桂千穂作品に心酔していったいきさつを述べているが、それを読んでわたしは大いなる共感と軽い嫉妬を覚えた。自分にも桂千穂作品の虜になった時期があるものの、北里氏より十歳下の一九六一年生まれだったために、ロマンポルノの前期作品群、とりわけ〈暴行切り裂きジャック〉をリアルタイムで体験することができなかったからだ。

  最初に観た桂千穂作品は〈女王蜂〉で、つぎが〈HOUSE〉だったと思う。そのころはまだ、映画は監督の名によって代表されるという意識しかなく、ほかのスタッフの名前を記憶する意志がそもそもゼロに近かった。しかし、それから一年ほどして名画座で観た〈ホテル強制わいせつ事件 犯して!〉において、桂千穂という名前がはじめて脳裏に鮮明に刻みこまれた。おぼろげな記憶にすぎないが、この映画では、冒頭に数ショットの風景描写があったあと、いきなり山科ゆりの顔がアップで映し出され、受話器に向かって「お父さま、いまホテルに着きました」と叫ぶ。そこからなんの前置きもなく、人物の説明もほとんど排したまま進められていくドラマは、起承転結形に慣れた身にとってはあまりに斬新で、当時けっして好みではなかった山科ゆりの顔や肢体さえもが異様なほどエロティックに感じられたものだ。その後の展開でも、暴漢の唐突で謎めいた登場のしかたなどに驚かされ、ずいぶん不安を掻き立てられたが、それでいて映画全体のテンポはさほど心地よいわけではなく、いくぶん平板にさえ感じた。映画そのものよりも、シナリオや構成に衝撃を受けた最初の体験がそれであり、当時十代後半だった自分はそれを機にシナリオの読み方や書き方に漠たる興味を持つようになった。

  そのころ、自分が作劇術に惹かれたシナリオライターが、桂千穂を含めて三人いた。ジェームス三木のシナリオでは、若い男女が親しくなっていく過程で、一方が自分の過去を語ろうとすると、もう一方が相手の口を封じるというパターンがよく見られた(〈さらば夏の光よ〉〈瞳の中の訪問者〉〈ダブル・クラッチ〉など)。中島丈博のシナリオでは、田舎から都会に出てきた人間が、故郷へ回帰しようとしてむなしく挫折し、ゼロから出発せざるをえない状況からドラマが動きだすケースが多かった(〈赤ちょうちん〉〈突然、嵐のように〉〈天使の欲望〉など)。だが桂千穂のシナリオは、そんなふうに過去を断ち切る手続きさえも踏まず、過去を持たない人間、持つことを拒絶した人間ばかりを描いていた。少し遅れて観た〈暴行切り裂きジャック〉や〈秘・ハネムーン 暴行列車〉にも、封切り時に観た〈昼下がりの女 挑発!!〉や〈ズームアップ 暴行現場〉にも、非日常的な危ない快楽が横溢しており、映画館に足を運ぶたびにぞくぞくするような興奮を覚えた。そして、ご本人の「人間なんてチェスの駒でいいんです」「洋画の字幕みたいな簡潔な台詞を書きたいんです」といった発言や、批評家としてほかの作品を斬り捨てるときの小気味いい歯切れよさと相まって、他に類を見ない強烈な魅力がいつも発散されていたものだ。

  そのころから二十年以上を経たいま、『多重映画脚本家・桂千穂』を読むにあたっていちばん注目したのは、ロマンポルノの後期以降、エキセントリックとすら呼べるであろう独特の作劇術がしだいに影をひそめ、共作のものも含めて、少しずつオーソドックスで安定したスタイル(とわたし自身には感じられるもの)に変わっていったことに対して、ご本人がどのようなスタンスをとり、どのように折り合いをつけていったかということだった。むろん、それが退化や変節だとは思わないが、成長や円熟といったことばもこの人にはまったくそぐわない気がしたからだ。

  とはいえ、読み進めるうち、そんなことはあまり気にならなくなった。桂さんのシナリオが以前ほど突出して感じられなくなったのは、その影響を直接間接に受けて、同じスタイルの作品がほかに多く現れたからだとも言えるだろう。ロマンポルノ後期で言えば、桂千穂・西村昭五郎コンビの最高傑作は〈鏡の中の悦楽〉だと思うが、これなどは前掲の作劇術とは趣が異なり、日常から徐々に逸脱していく狂気を着実に描き出したシナリオと、登場人物の視線と観客の視線を戦略的に交錯させた巧みな演出とが幸福な出会いを果たしたものである。また、〈襲われる女教師〉には、風祭ゆき演じる主人公が男に向かって「あなたの過去なんかどうでもいいけど、わたしの過去を半分に切らないでよ」という個所があり、なんと気のきいた名文句かと自分はそらんじたものだが(『多重映画脚本家・桂千穂』にもそのまま引用されていて驚いた)、これなどは従来の過去を描かないスタイルとは正反対の趣旨でありながら、あまりにかっこよく、あまりに切れ味鋭く、桂千穂そのものとしか言いようのない台詞だった。要は、たぐいまれなほど多くの引き出しを持っていたということだ。どんな注文もしっかりこなしつつ、やがてロマンポルノの制作が打ち切られたあとも、〈ふたり〉から〈あした〉、さらにほかの作品へと芸域をひろげていった過程については、インタビューを読んでいて、桂さんの職人としての矜持がごく自然に感じられ、さわやかな読後感だけが残った。

  そしてもちろん、この本は、数十年に及ぶ日本映画史、とりわけ日活ロマンポルノの歴史を、そこに深く多重的にかかわったひとりの映画人の半生に肉迫することで、巧みに明暗をつけて浮き彫りにした貴重な資料ともなっている。何かを学ぶために映画を鑑賞するのではなく、怪しき悦楽としての映画の虜となった経験が一度でもある者なら、たとえ桂千穂というシナリオライターに思い入れがなかったとしても、存分に楽しめる本であることはまちがいない。映画は好きだがロマンポルノとAVの区別さえつかない人間が、同世代のなかでも相変わらず多いが、そういう輩に入門書として薦めるにしても、概括的な全史よりこちらのほうがむしろふさわしいのではないかとも思っている。

  この夏、ラピュタ阿佐谷と浅草東宝で特集上映が組まれた折にトークショーがおこなわれたが、久しぶりにお見かけした桂千穂さんは、予想したよりもお元気そうだった。『多重映画脚本家・桂千穂』にもあったように、こんどはぜひ本格的なホラーを書いていただきたいと思った。桂千穂脚本、石井輝男監督という夢の組み合わせはついに実現せずじまいになったが、桂千穂さんの八十本目の作品を心待ちにしている人間は、むろんこの本の編者とわたしばかりではあるまい。

 《映画芸術》2005年秋号(413号)に掲載

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2012年5月11日 (金)

「生きつづけるロマンポルノ」(その1)

 今後ときどき、過去に雑誌や新聞やウェブサイトなどに寄稿した文章のうち、転載が可能なものを紹介していきます。

 まずは10年ほど前に《映画芸術》誌に書いた「擬制の快楽」という文章から。〈日活ロマンポルノ30年の興亡〉という特集の一環として、50人近くが自分にとっての「忘れられないこの一本」について語ったコーナーに参加させてもらったときに書いたものです。

『日本人なら必ず悪訳する英文』や《ミステリマガジン》をはじめ、各種のインタビューで、わたしは日活ロマンポルノの大ファンであったこと、そしてそれが(もちろん、翻訳の仕事も含めて)いまの自分の重要な一部を形作ってきたことをお話ししてきましたが、具体的な作品に即して語ったのがこの文章です。10年以上前に書いたものですが、いまも思いはほとんど変わっていません。 

 今年は日活が創立100周年を迎え、正月の〈幕末太陽傳〉再公開を皮切りにさまざまなイベントがおこなわれてきましたが、ちょうどあす5月12日から渋谷のユーロスペースで「生きつづけるロマンポルノ」という特集上映がはじまります。ロマンポルノを観たことがない人は、蓮實重彦・山田宏一・山根貞男の3氏が選んだ30本以上(3分の2程度がニュープリント)を一挙に公開するこの企画に、ぜひ一度足を運んで魅力を知っていただけたらと思います。残念ながら今回の30数本のなかに〈鏡の中の悦楽〉ははいっていませんが、自分が繰り返し観てきた傑作が何本も含まれています。

「生きつづけるロマンポルノ」の予告篇(2分弱)はこちら。ユーロスペースの上映スケジュールはこちらになります。特集企画の公式サイトはこちらですが、フェイスブックへの登録が必要です。

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 擬制の悦楽

 はじめて日活ロマンポルノを観たのは一九七七年の夏のことだ。ロマンポルノのいわゆる中期に観はじめたから、初期の作品に満ちあふれていたと言われる「混沌としたエネルギー」を同時代的に体験することはできなかったわけで、自分にとって初期の作品群は、神代辰巳のものにせよ田中登のものにせよ、教科書どおりの名作をあと追いの形で「学んだ」にすぎず、いまとなってはあまり深い思い入れがあるとは言えない。当時、他社においてプログラム・ピクチャーが急速に解体していくなか、ロマンポルノはむしろプログラム・ピクチャーとしてよくも悪くも安定期にあり、十代後半の自分は、封切りから数か月遅れの二番館や三番館に通い詰めながら、漫然とその流れに身をまかせていた。近所の明大前正栄館の大看板に「犯」や「襲」や「暴」の字が見えたときは目をらんらんと輝かせて入館し、「宇」や「鴻」の字が見えたときは昼寝をする覚悟ではいったものだ。

 そんな日常に亀裂が生じたのは、一九八二年のことだった。日活製作の作品ではなかったが、ビデオをそのままフィルムに変換しただけの〈THE・ONANIE〉をスクリーンで観たとき、足が地に着かなくなるほどの衝撃を覚えた。目の前で、ただ実際の行為を映しだしたにすぎない映像が延々と流されているにもかかわらず、館内は満員だった。自分は映画館に何を求めて来ているのか。なんのために映画を観ているのか。否が応でも、その問いかけを繰り返さざるをえなくなった。それまで無自覚に観つづけてきたつもりだったが、実はそうではないことがわかった。生身の人間が虚構を生みだすことによるひずみや齟齬こそが映画の魅力であり、ロマンポルノやピンク映画にはそれが最も凝縮された形で存在するからこそ、自分は足を運びつづけたのだということを、そのときはじめて悟った。 

  自分にとってロマンポルノ史上最高と思える作品が封切られたのが、それとほぼ同時期だったのは、むろん偶然であるはずがない。西村昭五郎の〈鏡の中の悦楽〉は、虚構と現実の境界をこの上なく鮮やかに際立たせてくれた快作だった。鏡の奥で繰りひろげられる縛り絵図、逆さ吊りのままこちらを射すくめる朝比奈順子の視線、鏡一枚を隔ててのぞき見をつづける少年の視線、さらにスクリーン越しに見守る自分自身と、それを取り囲むほかの客の視線。そのすべてがからみあい、ぶつかりあい、もつれあって、異様なほど濃密な、メタフィクショナルな空間が現出した。虚構ゆえの安心感と虚構ゆえの緊張感が混然となって、官能性の極みにまで昇華していた。それは映画の未来をじゅうぶんに信じさせてくれるものだった。 

 そんな作品が、日活のなかである意味で最も没個性的な、みずから匿名の作家をもって任ずる監督の手によるものだったのは興味深い。〈鏡の中の悦楽〉はこの年西村昭五郎が撮った《暴行三部作》のひとつだが、残りの二作である〈美姉妹・犯す〉と〈連続暴行・白昼の淫夢〉においても、〈鏡の中の悦楽〉に見られる重層的な仕掛けこそないものの、虚構であることを過剰なまでに意識させる映像が積み重ねられ、それが稀有の成功につながっていた。十数年たったいまもこれらの作品の印象が強烈に残っているのは、結局のところ、ロマンポルノの本質が仮構のセックスを増幅させて提示することであり、その意味で、〈THE・ONANIE〉からはじまったアダルトビデオ作品群の対極をめざせばよかったということを、この作家がだれよりもよく理解していたからだと言えないだろうか。 

  そんなふうに考えると、単なるノスタルジーではない形でロマンポルノ的なものが復活する可能性は、まだまだ残されている気がする。

《映画芸術》2001年春号(395号)に掲載

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2012年4月 9日 (月)

「なんでもわかるキリスト教大事典」

 待ちに待った日が訪れた、と言ってもけっして過言ではありません。

 絶版になっていた八木谷涼子さんの名著『知って役立つキリスト教大研究』の増補改訂版『なんでもわかるキリスト教大事典 (朝日文庫)』が先週末に刊行されました。「大事典」という名前から分厚く高価な本を想像する人もいるかもしれませんが、手軽で安価な文庫版です。しかし、内容はまさに「大事典」と呼ぶにふさわしい、翻訳関係者必携の1冊です。

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 この本の内容は、もともと《翻訳の世界》(と後続誌《eとらんす》)での連載がベースとなっています。ですから、そもそもが翻訳者や学習者からのさまざまな質問に答えていくことが記事の目的でした。その過程で、著者は数えきれないほど多くのキリスト教関係者への取材を重ねたと聞いています。そして何年もかけてその記事に加筆修正をして再構成し、2001年に書籍版が新潮OH!文庫から刊行されました。辞書として有用であるだけでなく、読み物としても非常におもしろかった『知って役立つキリスト教大研究』は、翻訳関係者のみならず、海外文化に興味のある本好きの人たちにも広く支持され、10刷りまで版を重ねましたが、新潮OH!文庫自体の終了にともない、2010年に絶版となってしまいました。

 わたし自身も、この本にはとうてい感謝しきれないほどお世話になりました。アンドリュー・テイラーの『天使の遊戯』『天使の背徳』『天使の鬱屈』の3部作も、そしてもちろん、ダン・ブラウンの『天使と悪魔』『ダ・ヴィンチ・コード』『ロスト・シンボル』も、この本がなければ翻訳できなかったと言ってもいいでしょう。『ダ・ヴィンチ・コード』の巻末では、推薦書の筆頭にこの本をあげてあります。

 それが今回、『なんでもわかるキリスト教大事典 (朝日文庫)』として復活したのは、すべての翻訳関係者にとっての朗報です。旧版より50ページ程度増えているというのもうれしい。ざっと見たところでは、比較的新しい教派の説明をいくつか加えたり、コラムをいくつか増やしたりというのが特に目立った加筆です。もちろん、諸情報を全面的に最新のものにしたという側面もあり、調べ物をする立場としてはほんとうにありがたい。英語と日本語の両方で詳細な索引がついていることや、「翻訳者や作家へのアドバイス」という項目が随所に見られることなど、旧版の長所はもちろん今回も引き継がれています。

 この本の存在をはじめて知った人も、旧版の読者のかたも、ぜひ手にとってみてください。この10年余り、わたしの仕事用パソコンのすぐ横にはずっと旧版が置いてありましたが、先週末についに交替しました。文字どおり座右の書です。

 著者の八木谷涼子さんのサイトはこちらです。