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2017年2月10日 (金)

『翻訳百景』刊行1周年+「なんのために学ぶのか」全文掲載

 著書の『翻訳百景』(角川新書)が刊行されて、きょうでちょうど1年になります。すでに購入してくださったみなさん、さまざまな形で紹介してくださったみなさんにあらためてお礼を申しあげます。

 刊行当時にもずいぶん紹介しましたが、これは文芸翻訳の仕事や翻訳書の愉しみについてさまざまな角度から書いた本です。翻訳書に興味がある人はもちろん、あまり読んだことのない人も楽しんでもらえると自負しています。読書メーターに集まった感想はここで読むことができます。

 この本は、もともとこのブログや各種雑誌などに書いた内容を再構成したものですが、長さの関係で載せきれなかった話もかなりあります(翻訳百景ミニイベントのこと、エラリー・クイーンの新訳のこと、six words のことなどなど)。それらを続編として刊行するのは現状ではちょっとむずかしいのですが、この本が継続してある程度売れていった場合、大幅に加筆した文庫版を出すことはおそらく可能です。そんな事情もあるので、引きつづきどうぞよろしくお願いします。

 何もかもをここで紹介するのはむずかしいので、もくじだけを掲載させてください。

第1章 翻訳の現場
 ・文芸翻訳の仕事
 ・すぐれた編集者とは
 ・翻訳書のタイトル
 ・翻訳の匙加減
  

第2章 『ダ・ヴィンチ・コード』『インフェルノ』翻訳秘話
 ・『天使と悪魔』と『ダ・ヴィンチ・コード』
 ・『デセプション・ポイント』と『パズル・パレス』、映画二作ほか
 ・『ロスト・シンボル』と『インフェルノ』
 ・ドン・ブライン『ダ・ヴィンチ・コッド』翻訳秘話
 

第3章 翻訳者への道
 ・わたしの修業時代
 ・なんのために学ぶのか
 

第4章 翻訳書の愉しみ
 ・全国翻訳ミステリー読書会
 ・読書探偵作文コンクール
 ・「紙ばさみ」って何?
 ・『思い出のマーニー』翻訳秘話
 ・ことばの魔術師 翻訳家・東江一紀の世界

 このなかで、第3章の「なんのために学ぶのか」だけは、翻訳の仕事の話とは一見あまり関係がありませんが、自分がいま翻訳の仕事をしている原点とも言うべき考え方なので、あえて収録したしだいです。5ページ半程度のものですから、1周年を機に、ここに全文を掲載します。ちょうど受験シーズンでもあり、受験生やご家族の人たちへの励ましのことばとしても読んでもらえたら、とひそかに思っています。

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   なんのために学ぶのか  

 いつの間にか、本業であれ副業であれ、講師として過ごした期間が三十年を越えた。そのあいだに多少とも子育てにかかわってきたこともあり、教えることや学ぶことの意味について、自分なりに長く考えてきたつもりだ。わたし自身は、周囲が勉強しているのに怠けつづけた時期と、だれにも負けないくらい勉強した時期の両方を経験したが、そんな立場から、いま感じていることを少し書いてみよう。  

 将来のためにTOEICや英検などを受けたほうがいいのかどうかと、いまでもよく尋ねられる。TOEICであれ英検であれ、資格試験というのは終着点ではなく通過点であり、目的ではなく手段である。そのことを自覚していれば受ける意味があるし、自覚していなければなんの意味もない。月並みだが、それが自分の答だ。
 たとえば英検の場合、二級までは四択問題で六割ぐらいの正答率で合格する。六割ぎりぎりで合格したとき、それが「目的」ならうれしいだろうけれど、「手段」ならうれしいはずがない。二級は高校修了程度、三級は中学修了程度とされているが、四択問題でたったそれだけしか正答できないのに、修了程度の実力がついたと錯覚するのがいちばん困る。学校単位で受けるような場合には、生徒のためにも、無理に上の級を狙わせるのではなく、なるべく相応の級を受けるよう、周囲が指導すべきだと思う。
 わたし自身は、中学三年で英検の二級に合格したが、そのときの正答率はおそらく六割ぎりぎりで(当時は自分の得点を知らされなかった)、正直なところ、何が書いてあるか、ちんぷんかんぷんに近い状態だった。二次試験の面接でも、ひとつの問いでは何を尋ねられているかまったくわからず、すっかり黙してしまったので、落ちたとばかり思っていたら、合格の知らせが来た。もちろん、そのときはうれしくてたまらなかったが、実力不相応の大きな目標を達成できたせいで、それ以降は英語の勉強をやめてしまい、本格的に再開したのは大学受験の予備校にかよいはじめてからだった。あのとき、しっかり不合格をもらっていたら、もっと早い時期に本物の実力をつけていただろう。十代の苦い思い出のひとつだ。
 

 数年前、知り合いの男の子が中学受験をしたところ、第四志望までの学校がすべて不合格となり、ようやく第五志望の学校に合格した。落ち着いたころ、その子が母親にこう言ったという。「落ちてばかりでつらかった。でも、三年間、いろいろ勉強できて楽しかったよ。中学受験してよかった。お母さん、ありがとう」おそらくその子は、第一志望に合格する以上のものを手に入れたはずだ。
 わたしが最初にアルバイトで教えた中学受験専門の学習塾には、「中学受験の結果で最もよいのは〝努力して落ちること〟、二番目は〝努力して受かること〟、三番目は〝努力しないで落ちること〟、最も悪いのは〝努力しないで受かること〟」というモットーがあった。合格が最終目標であるはずなのに、落ちるほうがよいとは何事だと、いまの時代なら親たちから怒鳴りこまれそうな文言だ。しかし、翻訳の仕事をはじめる前の十年以上に及ぶ講師生活で、わたしが見てきたなかには、中学受験で力不足なのに合格したことがその後けっしてプラスに働かなかった例も、中学受験で不合格だったことがその後大きくプラスに働いた例も、数えきれないほどあった。
 もちろん、その四つの順位づけはただの建前や絵空事かもしれないし、現実はそんなに甘くないのかもしれない。合格したことでモチベーションがさらにあがることも多いし、再起のチャンスが二度と訪れない場合もある。それでも、重要なのは結果ではなく、それに向けての努力だという、ごく当然のことなのに忘れがちな事実を、ときどきでもいいから思い出したいから、こんなことを書いている。
 わたし自身は大学受験で二度失敗し、三度目に合格している。一度目は努力しないで落ち、二度目は努力して落ち、三度目は努力して受かった。四つのうち三つまでを経験したわけだが、残りのひとつ〝努力しないで受かること〟がなかったのは、これもまた大きな幸運だったと思っている。
  

「なんのために学ぶのか」という問いに対して、ひとことで答えることはむずかしい。禅問答まがいの言い方をすれば「おのれの愚かさを知るため」だと思うが、それではわけがわからないので、少し例をあげて説明しよう。
 たとえば、千語ぐらいの単語集を全部暗記するためにどのくらい時間がかかるかは個人差があるだろうが、確実に言えるのは、後半の五百語を覚えるのに要する時間は、前半の五百語に要する時間よりずっと少なく、おそらく半分程度ですむということだ。頭のなかにいくらかの蓄積ができると、類推したり比較したりして、効率のよい方法が自然に身につくから、覚えるペースは加速する。最初は忘れて覚えての繰り返しだが、つづけていくうちに要領がわかり、少しずつ楽になっていく。
 そして、一冊をしっかり記憶した経験は、別の単語集や別の科目の何かを覚えようというときにも確実に生きてくる。それは、どんな作業が必要か、どれほど面倒なものかをすでに体得しているからだ。そして、人間はいかに忘れやすい生き物であるか、いかに怠けやすい動物であるかを身をもって知っている。大げさに言えば、自分の愚かさを知っているからこそ、進歩へのスタートを切れるということだ。その一方で、すでにひとつの目標を達成しているから、最後までやりきる自信はあり、成功の喜びも知っている。
 入学試験であれ、資格試験であれ、試験以外の目標に向けてであれ、何かについて学び抜いた経験は、つぎに新しいことを学ぼうとするときにかならず財産になる。その財産は、試験の結果自体とは比較にならないほど大きなものだ。
 

 文芸翻訳の勉強についても、まったく同じことが言える。翻訳の作業では、通常では考えられないほどの深さで調べ物をする必要がある。長くつづければ、自分の知識などたかが知れていることを思い知らされるから、手を抜かずに調べるし、たやすくは結論に飛びつかない。そういう作業に本格的に取り組んだ経験は、文芸翻訳の仕事に就こうと就くまいと、その後の人生のさまざまな局面で確実に役立つはずだ。
 わたし自身は、翻訳の勉強をはじめてから二十年以上になるが、まだまだ知らないこと、わからないことは多く、むしろ増えている気さえする。だが、それこそがおそらく翻訳という仕事のいちばんの魅力であり、つづけていくための原動力なのだろう。
 そして、翻訳書を読む側、翻訳文化を受容する側にとっても、同じことが言えるはずだ。未知のものが無尽蔵にあり、果てしなく湧き出してくることは、翻訳書を読む際の大きな喜びにほかならない。われわれ翻訳者は、そのお手伝いができるよう、日々つとめているので、どうかその成果たる数々の翻訳書を末長く楽しんで、人生の糧としてもらいたい。

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