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  • 越前敏弥
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2014年1月10日 (金)

「大機構」について

 ダン・ブラウンの『インフェルノ』が刊行されて1か月半近くが経ち、すでにお読みになったかたも多いと思うので、きょうは『インフェルノ』の訳語についての話を少々。

 これまで、ダン・ブラウンの作品では、組織名や役職名をどう訳すかで迷ったことが何度かありました。定訳がある場合は問題ありませんが、2種類ある場合や、まったくない場合も多く、そのつど、味わいや重み、わかりやすさや読者層など、諸要素を考慮しながら、いくつかの訳語を秤にかけてきたものです。

 過去にいちばん迷ったのは、『ダ・ヴィンチ・コード』の「導師」だったと思います。これは事件の黒幕とも呼ぶべき重要人物ですが、原語は Teacher でした。当時の翻訳のクラスでは、ほとんどの生徒が「教師」か「先生」と訳してきましたが、この語は地の文と呼びかけの両方で何度も登場することもあり、もっと強烈な印象を残す訳語を選ぶべきです。Teacher が大文字ではじまっていることを生かさなくてはいけない、という言い方もできるでしょう。こういうときは、単語レベルで考えるのではなく、作品全体のなかでどんな位置にあり、どんな役割を持った人物であるかまでを判断材料にする必要があります。最終的に「導師」という訳語に決めるまでには、たしか1か月以上かかりました。

 それに劣らず、いや、たぶんそれ以上に迷ったのが、今回の『インフェルノ』に登場する謎の組織「大機構」でした。いちおう本文の最初に、名称は変えてあるが実在すると書いてはあるものの、これは架空の組織と考えて差し支えがありません。

 この「大機構」ですが、原語は the Consortium です。辞書を引くと、組合、協会、共同体、合弁企業などの訳語が出ています。カタカナの「コンソーシアム」というのは、まだおそらくほとんどの人にとってあまりなじみのないことばでしょうが、大学や研究団体などの連合体などの意味に使われるケースが多いようです。最近だと、電子書籍コンソーシアムという名前を何度か耳にしました。

 今回も訳出期間中に翻訳のクラスでこの作品を教材にしたところ、約半数の生徒が辞書どおりに「協会」「共同体」「連合」などと訳し、残りの半数は「コンソーシアム」でした。実を言うと、わたし自身もその時期はどの訳語で行くべきか判断しかねていて、生徒の訳のなかでよさそうなものを採用しようと考えていました。

 しかし、「協会」「共同体」「連合」では、あまりに抽象的であり、また、「教師」「先生」と同じで読者の印象に残りません。また、「コンソーシアム」は、得体が知れないと言えばそうですが、洗練された感じやアカデミックな響きがあり、この組織の持つ妙ないかがわしさに合っていません。

 未読の人にはわかりづらいかもしれませんが、この the Consortium というのは、なんだかわけがわからないものの、大規模な陰謀を請け負う秘密結社めいた組織です。そして、後半になると、見かけとはまったくちがう意外な(そしてあまりにも異様な)実態が明らかになるわけですが、訳語はその見かけと実態の両方を反映していなくてはなりません。そのためには、「公」なのか「私」なのか見当がつかない、どっちつかずで仰々しい響きが必要です。

 わたし自身は、この『インフェルノ』という作品には、スピード感と蘊蓄のバランスのよいスリラーとしてだけでなく、いわゆる「バカミス」としてのおもしろさがあると考えています。そのあたりについては、「インフェルノへの道(その1)」の後半の記述や、「書評七福神の十一月度ベスト発表!」の千街晶之さんの文章を参考になさってください。そして、この作品の魅力を最大限に伝えるためには、the Consortium に極端なまでに大仰な訳語を与える必要があると思いました。冗談ではなく、「死ね死ね団」などという訳語も一瞬脳裏をよぎったほどです。

 最終的には、ひとりの生徒が「機構」という訳語を選んできたのを手がかりとして、それに「大」をつけました。「機構」は字画数が多く、「協会」などに比べてずっと事々しい響きがあるので、かなりよいと感じましたが、それではこの作品の「陰の主役」の名としては物足りなかったので、「大」で駄目押しの一撃を加えたしだいです。

『インフェルノ』はすでに映画化が決まっていて、2015年12月に公開される予定です。「大機構」がどんなふうに描かれるのか、いまから楽しみです。

【2016年10月追記】

 その後、製作が少し遅れ、映画〈インフェルノ〉は2016年10月28日に公開されることになりました。公式サイトはここ。〈ダ・ヴィンチ・コード〉〈天使と悪魔〉につづいて、今回も翻訳のお手伝いをさせていただきましたが、映画作品は原作の換骨奪胎のしかたが徐々に進化している気がします。ぜひお楽しみください。

 この記事に興味をお持ちになったかたは、わたしの著書『翻訳百景』に「『ダ・ヴィンチ・コード』『インフェルノ』翻訳秘話」という50ページ余りの章があって、そこにさらにくわしく書いたので、ぜひご一読ください。

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