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  • 越前敏弥
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2012年5月11日 (金)

「生きつづけるロマンポルノ」(その1)

 今後ときどき、過去に雑誌や新聞やウェブサイトなどに寄稿した文章のうち、転載が可能なものを紹介していきます。

 まずは10年ほど前に《映画芸術》誌に書いた「擬制の快楽」という文章から。〈日活ロマンポルノ30年の興亡〉という特集の一環として、50人近くが自分にとっての「忘れられないこの一本」について語ったコーナーに参加させてもらったときに書いたものです。

『日本人なら必ず悪訳する英文』や《ミステリマガジン》をはじめ、各種のインタビューで、わたしは日活ロマンポルノの大ファンであったこと、そしてそれが(もちろん、翻訳の仕事も含めて)いまの自分の重要な一部を形作ってきたことをお話ししてきましたが、具体的な作品に即して語ったのがこの文章です。10年以上前に書いたものですが、いまも思いはほとんど変わっていません。 

 今年は日活が創立100周年を迎え、正月の〈幕末太陽傳〉再公開を皮切りにさまざまなイベントがおこなわれてきましたが、ちょうどあす5月12日から渋谷のユーロスペースで「生きつづけるロマンポルノ」という特集上映がはじまります。ロマンポルノを観たことがない人は、蓮實重彦・山田宏一・山根貞男の3氏が選んだ30本以上(3分の2程度がニュープリント)を一挙に公開するこの企画に、ぜひ一度足を運んで魅力を知っていただけたらと思います。残念ながら今回の30数本のなかに〈鏡の中の悦楽〉ははいっていませんが、自分が繰り返し観てきた傑作が何本も含まれています。

「生きつづけるロマンポルノ」の予告篇(2分弱)はこちら。ユーロスペースの上映スケジュールはこちらになります。特集企画の公式サイトはこちらですが、フェイスブックへの登録が必要です。

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 擬制の悦楽

 はじめて日活ロマンポルノを観たのは一九七七年の夏のことだ。ロマンポルノのいわゆる中期に観はじめたから、初期の作品に満ちあふれていたと言われる「混沌としたエネルギー」を同時代的に体験することはできなかったわけで、自分にとって初期の作品群は、神代辰巳のものにせよ田中登のものにせよ、教科書どおりの名作をあと追いの形で「学んだ」にすぎず、いまとなってはあまり深い思い入れがあるとは言えない。当時、他社においてプログラム・ピクチャーが急速に解体していくなか、ロマンポルノはむしろプログラム・ピクチャーとしてよくも悪くも安定期にあり、十代後半の自分は、封切りから数か月遅れの二番館や三番館に通い詰めながら、漫然とその流れに身をまかせていた。近所の明大前正栄館の大看板に「犯」や「襲」や「暴」の字が見えたときは目をらんらんと輝かせて入館し、「宇」や「鴻」の字が見えたときは昼寝をする覚悟ではいったものだ。

 そんな日常に亀裂が生じたのは、一九八二年のことだった。日活製作の作品ではなかったが、ビデオをそのままフィルムに変換しただけの〈THE・ONANIE〉をスクリーンで観たとき、足が地に着かなくなるほどの衝撃を覚えた。目の前で、ただ実際の行為を映しだしたにすぎない映像が延々と流されているにもかかわらず、館内は満員だった。自分は映画館に何を求めて来ているのか。なんのために映画を観ているのか。否が応でも、その問いかけを繰り返さざるをえなくなった。それまで無自覚に観つづけてきたつもりだったが、実はそうではないことがわかった。生身の人間が虚構を生みだすことによるひずみや齟齬こそが映画の魅力であり、ロマンポルノやピンク映画にはそれが最も凝縮された形で存在するからこそ、自分は足を運びつづけたのだということを、そのときはじめて悟った。 

  自分にとってロマンポルノ史上最高と思える作品が封切られたのが、それとほぼ同時期だったのは、むろん偶然であるはずがない。西村昭五郎の〈鏡の中の悦楽〉は、虚構と現実の境界をこの上なく鮮やかに際立たせてくれた快作だった。鏡の奥で繰りひろげられる縛り絵図、逆さ吊りのままこちらを射すくめる朝比奈順子の視線、鏡一枚を隔ててのぞき見をつづける少年の視線、さらにスクリーン越しに見守る自分自身と、それを取り囲むほかの客の視線。そのすべてがからみあい、ぶつかりあい、もつれあって、異様なほど濃密な、メタフィクショナルな空間が現出した。虚構ゆえの安心感と虚構ゆえの緊張感が混然となって、官能性の極みにまで昇華していた。それは映画の未来をじゅうぶんに信じさせてくれるものだった。 

 そんな作品が、日活のなかである意味で最も没個性的な、みずから匿名の作家をもって任ずる監督の手によるものだったのは興味深い。〈鏡の中の悦楽〉はこの年西村昭五郎が撮った《暴行三部作》のひとつだが、残りの二作である〈美姉妹・犯す〉と〈連続暴行・白昼の淫夢〉においても、〈鏡の中の悦楽〉に見られる重層的な仕掛けこそないものの、虚構であることを過剰なまでに意識させる映像が積み重ねられ、それが稀有の成功につながっていた。十数年たったいまもこれらの作品の印象が強烈に残っているのは、結局のところ、ロマンポルノの本質が仮構のセックスを増幅させて提示することであり、その意味で、〈THE・ONANIE〉からはじまったアダルトビデオ作品群の対極をめざせばよかったということを、この作家がだれよりもよく理解していたからだと言えないだろうか。 

  そんなふうに考えると、単なるノスタルジーではない形でロマンポルノ的なものが復活する可能性は、まだまだ残されている気がする。

《映画芸術》2001年春号(395号)に掲載

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