プロフィール

  • 越前敏弥
    文芸翻訳者。 いまのところ、更新は週1、2回程度です。 ご感想・お問い合わせなどは office.hyakkei@gmail.com へお願いします。
無料ブログはココログ

« INFORMATION 2012-05-15 | トップページ | INFORMATION 2012-05-22 »

2012年5月18日 (金)

「生きつづけるロマンポルノ」(その2)

 東京・渋谷ユーロスペースの特集上映「生きつづけるロマンポルノ」はなかなか好調のスタートを切ったようです。ユーロスペースでの上映後は、順次全国で公開される予定です。(スケジュールはこちら)。

 これへの応援の意味をこめて、先週に引きつづき、今週もかつて日活ロマンポルノについて書いた文章を転載します。これは7年前、シナリオライターの桂千穂さんの伝記『多重映画脚本家 桂千穂』が刊行されたときに《映画芸術》誌に書いた書評です。いま読み返してみると、私的ロマンポルノ史であると同時にちょっとした文章論にもなっていると思うので、このタイミングで載せようと考えたしだいです。

 わたしはいまでも、桂さんのような台詞を書きたいと無意識に思いながら小説の翻訳をしています。

―――――――――――――――――

日活ロマンポルノ史への秘めた視線

 拙訳書『ダ・ヴィンチ・コード』が去年世に出たとき、書評の多くが、煎じ詰めればほとんど同じことを言っていた。いわく、スピード感抜群でページを繰る手が止まらない、語られる蘊蓄はわかりやすく興味深い、だが、人物描写が薄っぺらで、作品としての深みがない、と。その手の書評を読むたび、そもそも「スピード感」と「深み」が両立することなどありえないではないか、と感じたものだ。そして、桂千穂さんだったらこれを聞いてどうおっしゃるだろうか、とも何度か思った。何しろ、数十年にわたって、極論すれば「人間なんか描かなくてよい」という主張をさまざまな場で繰り返し述べてきたシナリオライター/批評家なのだから。

 そんな折、『多重映画脚本家・桂千穂』(ワイズ出版)が刊行された。全編を通して、ふたりの編者が桂さんにインタビューする形式で、デビュー前の修業時代から現在まで原則として時代順に、全作品の解説や裏話がたっぷり語られる。桂さんも含めた三人の、映画への(とりわけロマンポルノへの)愛が強く伝わってくる力作だ。編者のひとりである北里宇一郎氏は、あとがきで、若き日に桂千穂作品に心酔していったいきさつを述べているが、それを読んでわたしは大いなる共感と軽い嫉妬を覚えた。自分にも桂千穂作品の虜になった時期があるものの、北里氏より十歳下の一九六一年生まれだったために、ロマンポルノの前期作品群、とりわけ〈暴行切り裂きジャック〉をリアルタイムで体験することができなかったからだ。

  最初に観た桂千穂作品は〈女王蜂〉で、つぎが〈HOUSE〉だったと思う。そのころはまだ、映画は監督の名によって代表されるという意識しかなく、ほかのスタッフの名前を記憶する意志がそもそもゼロに近かった。しかし、それから一年ほどして名画座で観た〈ホテル強制わいせつ事件 犯して!〉において、桂千穂という名前がはじめて脳裏に鮮明に刻みこまれた。おぼろげな記憶にすぎないが、この映画では、冒頭に数ショットの風景描写があったあと、いきなり山科ゆりの顔がアップで映し出され、受話器に向かって「お父さま、いまホテルに着きました」と叫ぶ。そこからなんの前置きもなく、人物の説明もほとんど排したまま進められていくドラマは、起承転結形に慣れた身にとってはあまりに斬新で、当時けっして好みではなかった山科ゆりの顔や肢体さえもが異様なほどエロティックに感じられたものだ。その後の展開でも、暴漢の唐突で謎めいた登場のしかたなどに驚かされ、ずいぶん不安を掻き立てられたが、それでいて映画全体のテンポはさほど心地よいわけではなく、いくぶん平板にさえ感じた。映画そのものよりも、シナリオや構成に衝撃を受けた最初の体験がそれであり、当時十代後半だった自分はそれを機にシナリオの読み方や書き方に漠たる興味を持つようになった。

  そのころ、自分が作劇術に惹かれたシナリオライターが、桂千穂を含めて三人いた。ジェームス三木のシナリオでは、若い男女が親しくなっていく過程で、一方が自分の過去を語ろうとすると、もう一方が相手の口を封じるというパターンがよく見られた(〈さらば夏の光よ〉〈瞳の中の訪問者〉〈ダブル・クラッチ〉など)。中島丈博のシナリオでは、田舎から都会に出てきた人間が、故郷へ回帰しようとしてむなしく挫折し、ゼロから出発せざるをえない状況からドラマが動きだすケースが多かった(〈赤ちょうちん〉〈突然、嵐のように〉〈天使の欲望〉など)。だが桂千穂のシナリオは、そんなふうに過去を断ち切る手続きさえも踏まず、過去を持たない人間、持つことを拒絶した人間ばかりを描いていた。少し遅れて観た〈暴行切り裂きジャック〉や〈秘・ハネムーン 暴行列車〉にも、封切り時に観た〈昼下がりの女 挑発!!〉や〈ズームアップ 暴行現場〉にも、非日常的な危ない快楽が横溢しており、映画館に足を運ぶたびにぞくぞくするような興奮を覚えた。そして、ご本人の「人間なんてチェスの駒でいいんです」「洋画の字幕みたいな簡潔な台詞を書きたいんです」といった発言や、批評家としてほかの作品を斬り捨てるときの小気味いい歯切れよさと相まって、他に類を見ない強烈な魅力がいつも発散されていたものだ。

  そのころから二十年以上を経たいま、『多重映画脚本家・桂千穂』を読むにあたっていちばん注目したのは、ロマンポルノの後期以降、エキセントリックとすら呼べるであろう独特の作劇術がしだいに影をひそめ、共作のものも含めて、少しずつオーソドックスで安定したスタイル(とわたし自身には感じられるもの)に変わっていったことに対して、ご本人がどのようなスタンスをとり、どのように折り合いをつけていったかということだった。むろん、それが退化や変節だとは思わないが、成長や円熟といったことばもこの人にはまったくそぐわない気がしたからだ。

  とはいえ、読み進めるうち、そんなことはあまり気にならなくなった。桂さんのシナリオが以前ほど突出して感じられなくなったのは、その影響を直接間接に受けて、同じスタイルの作品がほかに多く現れたからだとも言えるだろう。ロマンポルノ後期で言えば、桂千穂・西村昭五郎コンビの最高傑作は〈鏡の中の悦楽〉だと思うが、これなどは前掲の作劇術とは趣が異なり、日常から徐々に逸脱していく狂気を着実に描き出したシナリオと、登場人物の視線と観客の視線を戦略的に交錯させた巧みな演出とが幸福な出会いを果たしたものである。また、〈襲われる女教師〉には、風祭ゆき演じる主人公が男に向かって「あなたの過去なんかどうでもいいけど、わたしの過去を半分に切らないでよ」という個所があり、なんと気のきいた名文句かと自分はそらんじたものだが(『多重映画脚本家・桂千穂』にもそのまま引用されていて驚いた)、これなどは従来の過去を描かないスタイルとは正反対の趣旨でありながら、あまりにかっこよく、あまりに切れ味鋭く、桂千穂そのものとしか言いようのない台詞だった。要は、たぐいまれなほど多くの引き出しを持っていたということだ。どんな注文もしっかりこなしつつ、やがてロマンポルノの制作が打ち切られたあとも、〈ふたり〉から〈あした〉、さらにほかの作品へと芸域をひろげていった過程については、インタビューを読んでいて、桂さんの職人としての矜持がごく自然に感じられ、さわやかな読後感だけが残った。

  そしてもちろん、この本は、数十年に及ぶ日本映画史、とりわけ日活ロマンポルノの歴史を、そこに深く多重的にかかわったひとりの映画人の半生に肉迫することで、巧みに明暗をつけて浮き彫りにした貴重な資料ともなっている。何かを学ぶために映画を鑑賞するのではなく、怪しき悦楽としての映画の虜となった経験が一度でもある者なら、たとえ桂千穂というシナリオライターに思い入れがなかったとしても、存分に楽しめる本であることはまちがいない。映画は好きだがロマンポルノとAVの区別さえつかない人間が、同世代のなかでも相変わらず多いが、そういう輩に入門書として薦めるにしても、概括的な全史よりこちらのほうがむしろふさわしいのではないかとも思っている。

  この夏、ラピュタ阿佐谷と浅草東宝で特集上映が組まれた折にトークショーがおこなわれたが、久しぶりにお見かけした桂千穂さんは、予想したよりもお元気そうだった。『多重映画脚本家・桂千穂』にもあったように、こんどはぜひ本格的なホラーを書いていただきたいと思った。桂千穂脚本、石井輝男監督という夢の組み合わせはついに実現せずじまいになったが、桂千穂さんの八十本目の作品を心待ちにしている人間は、むろんこの本の編者とわたしばかりではあるまい。

 《映画芸術》2005年秋号(413号)に掲載

―――――――――――――――――

« INFORMATION 2012-05-15 | トップページ | INFORMATION 2012-05-22 »

本・映画」カテゴリの記事